最近このブログとは別に「祭写楽ドットコム」というサイトを立ち上げており、各地のだんじりを紹介しているのですが、見送りの題材を調べていると、同じだんじりでもあるサイトでは「難波戦記」、別のサイトでは「大坂夏之陣」と書いていたり、たまに記述が違っていることがあるのに気づきました。ちょっと気になったので見送りの銘にはどう書かれているのかを調べてみました。
以下は銘に「大坂夏之陣」と書かれているだんじり
稲葉東

大手町

大澤町

上瓦屋

中井町

西之内

春木大小路町

春木中町

基本、金網なしの時にしか見送りは撮影しないのですが、春木中町は以前に金網着きでも撮影していたようです。
以下は銘に「難波戦記」と書かれているだんじり
池尻町

磯之上町

戎町

小高石

仲之町

道之町

道之町先代

南上町

以下は金網なしで撮影したけど銘が写真で確認できなかっただんじり
和気町先代

撮影時にいただいた資料では「難波戦記大坂夏の陣?」と記載されていました。銘がなかったんだと思います。
朝代

上之町先代

大園

流木町の先代だんじりで「岸和田のだんじり 岸和田だんじり会館 開館十周年記念誌」には「大坂夏の陣」と記載されています。
ネットで調べてみると、「難波戦記」とは「大坂冬之陣」と「大坂夏の陣」を中心とした軍記物です。つまり「大坂夏之陣」は「難波戦記」の一部分となります。算数的に表現すると「難波戦記」≒「大坂冬之陣」+「大坂夏之陣」とか「難波戦記」⊃「大坂夏之陣」 ということになります。
次に複数の彫師さんに確認した結果を纏めてみました。
銘に「大坂夏之陣」と書くと、彫り物は「大坂夏之陣」の場面に限定されます。難波戦記と書くと「大坂夏之陣」よりも彫れる時代の幅が広がります。今ではほとんど見かけないそうですが昔は一つの見送りの中に「大坂冬之陣」と「大坂夏之陣」が混在していたこともあったそうです。そういう場合は「難波戦記」という記述になります。「大坂夏之陣」は「難波戦記」の一部ですから、「大坂夏之陣」の場面だけでも「難波戦記」と表記ができます。そういう場合は施主からの依頼がほとんだそうです。ちなみに施主側の町のだんじりマニア数名に『「難波戦記」又は「大坂夏之陣」と表記した理由』を質問してみましたが、回答は「先代の銘がそうなっていたから」「たくさんの資料をまとめて、登場人物や配置などを決めた 」ということでした。
事実をまとめると
・「大坂夏之陣」だけが彫られているものは、「難波戦記」と表記するか「大坂夏の陣」と表記するかは施主側の意向
・「大坂冬之陣」+「大坂夏之陣」の両方の場面が彫られているものは「難波戦記」
ということになります。
ここからは私見ですが
「難波戦記」には軍記の「難波戦記」と講談の「難波戦記(物)」があり、講談の「難波戦記(物)」では『真田幸村は夏の陣で死なず、本当は徳川家康が死んでいた 。』という結末になっています。ひょっとしたら「大坂夏の陣」を「難波戦記」と表記するのは施主側が講談の「難波戦記」を意識しているのではないかと勝手に推測しています。ある彫師さんも「講談は大坂方が実は徳川を追い詰めたとか、大坂方のやられた武将の生存説があり大阪の人寄りの話なので昔から城下町などに講談師が来てた事もあり大坂の人達は好んでだんじりの彫物に入れたと考えられます!徳川幕府があった江戸時代まではだんじりの図柄は難波戦記入れれなかったので明治になり一気に人気出た図柄です!」 と言われています。
おまけ(今回の調査でわかったこと)
1.大坂冬之陣は籠城戦で登場人物が少なく見送りにはあまり適さない題材である。
2.難波戦記と表記すると「大坂冬之陣」の真田丸と「大坂夏之陣」で登場する武将を使うことができる。ただし真田丸を使うということは真田幸村が籠城しているので、真田幸村の馬乗りは使えない。
3.大阪城は大きく彫ってという依頼をする施主が多いが、上瓦屋は逆に小さく彫ってと依頼したそうです。
以上が今回の調査結果のまとめとなります。調査にお付き合いいただいた彫師の皆様、マニアの皆様ご協力ありがとうございました。読者の皆様も長文にお付き合いいただきありがとうございました。
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