この日なんの日(3月24日 壇の浦の戦いで平氏が滅亡)
今日3月24日は、壇の浦の戦いで平氏が滅亡した日です。
壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)は、平安時代の末期の元暦2年/寿永4年3月24日(1185年4月25日)に長門国赤間関壇ノ浦(現在の山口県下関市)で行われた戦闘。栄華を誇った平家が滅亡に至った治承・寿永の乱の最後の戦いである。(ウィキペディアより引用)
『平家物語』には平氏一門の最後の様子が描かれている。知盛は建礼門院や二位尼らの乗る女船に乗り移ると「見苦しいものを取り清め給え、これから珍しい東男を御目にかけましょう」と笑った。これを聞いた二位尼は死を決意して、幼い安徳天皇を抱き寄せ、宝剣を腰にさし、神璽を抱えた。安徳天皇が「どこへ行くのか」と仰ぎ見れば、二位尼は「弥陀の浄土へ参りましょう。波の下にも都がございます」と答えて、安徳天皇とともに海に身を投じた。『吾妻鏡』によると二位尼が宝剣と神璽を持って入水、按察の局が安徳天皇を抱いて入水したとある。続いて建礼門院ら平氏一門の女たちも次々と海に身を投げる。(ウィキペディアより引用)
そのシーンはこちら、大阪市生野区清見原神社の大友のだんじりに彫られています。
武将たちも覚悟を定め、教盛は入水、経盛は一旦陸地に上がって出家してから還り海に没した。資盛、有盛、行盛も入水している。平家の総帥宗盛も嫡男の清宗と入水するが、命を惜しんで浮かび上がり水練が達者なために泳ぎ回っていたところを義経軍に捕らえられてしまった。剛の者である教経は、鬼神の如く戦い坂東武者を討ち取りまくるが、知盛が既に勝敗は決したから罪作りなことはするなと伝えた。教経は、ならば敵の大将の義経を道連れにせんと欲し、義経の船を見つけてこれに乗り移った。教経は小長刀を持って組みかからんと挑むが、義経はゆらりと飛び上がると船から船へと飛び移り八艘彼方へ飛び去ってしまった。義経の「八艘飛び」である。(ウィキペディアより引用)
このシーンは有名でよく彫られています。
この時の平教経の様子は大工町 枡合正面に彫られています。
↑壇ノ浦の勇将 平教経
今回も文字多めの日本史の講義風でした。
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